"不可能任務"に挑戦を(アニメ『スパイ教室』3話までの感想)
ネタバレ注意
この記事では竹町著『スパイ教室01 《花園》のリリィ』(ファンタジア文庫)およびそれを原作としたアニメ『スパイ教室』のネタバレを含みます。
作品を未読・未視聴の方でネタバレが嫌だという人はブラウザバックするか、以下のリンクから原作を購入しましょう(必ずアニメを見るより先に!)。
この記事の主旨
『スパイ教室』のアニメの出来に「もったいないな〜」と思ったと言いたいだけである。クライマックスの一番盛り上がるところで、「あ、これアニメ見ずに原作を読むべきやつだった」と思ってしまうのはあまりにも悲しい。原作を読んでみたところ、その理解は正しかったことがわかったので、愚痴を書く。
『スパイ教室』の簡単な紹介
タイトルから明らかなように、『スパイ教室』はスパイものである。
各国がスパイによる、影の戦争を繰り広げる世界において、主人公リリィを含む、スパイ養成学校の落ちこぼれ少女たちがチーム『灯』に招集される。屋敷で共同生活を送りながら、凄腕スパイ・クラウスの指導を受け、やがて死亡率九割を超える"不可能任務"に挑むというのが物語の筋書きだ。
クラウスは天才であるがゆえに自らの技術を上手く説明できず、少女の指導のための苦肉の策として、「僕を倒せ」と指示を出す。少女たちは共同生活の中であれやこれやとクラウスを倒す策を巡らせる過程で、絆を結び、成長していく。
そして、いよいよ迎えた"不可能任務"で彼女たち『七人』を待ち受けていたのは――
仕掛けられたトリック
ここから核心に触れるネタバレである。
"不可能任務"において少女たちの前に立ちはだかったのはクラウスの師匠にあたるギードだ。
クラウスがかつて属していた国内最強のスパイチーム『焔』は任務で壊滅しており、その原因はギードの裏切りである。
ギードはクラウスでさえ一度も勝ったことのない、戦闘の名人。クラウスと別行動を取っていた少女たちは「七対一」であるにも関わらず苦戦する。
そして、ギードが七人の少女を打倒し、絶体絶命。
しかし、隠れていた『八人目』であるエルナが、『七人全員』を倒したと思って油断したギードにナイフを突き立てた。
ギードはスパイの少女が『七人』だと誤解していたのである。
なぜそのようなことが起こったのか。
クラウスの計略によるものだ。
ギードがかつて『焔』の拠点であり、今は『灯』が共同生活を送る屋敷に盗聴器をしかけ、"不可能任務"についての情報を盗んでいるとクラウスは把握していた。そこで、クラウスは八人いる少女たちがあたかも「七人」であるように振る舞わせ、盗聴している敵を騙すというトリックだ。
もし実際の目で確かめたならば八人いることは一目瞭然だったろうが、音声だけで八人の少女の声を聞き分けるのは難しい
これは作中の一文である。
さて、このトリックに騙されたのはギードだけではない。原作小説の読者の多くも騙されたはずだ。
作中で、クラウスも少女たちも「七人」という言葉を何度も口にする。そのセリフを読者はすっかり信じ込み、少女たちは『七人』だと思いこんでしまうのである。
少女たちは『はっきりと八人』描写されているにも関わらず、である。
叙述トリック作品としての小説『スパイ教室』
これはいわゆる叙述トリックである。
主に推理小説などで、先入観などを利用し、読者を誤った解釈に導くことを意味する語。例として、人物の性別や年齢、時系列や場所などに関して、文章中で重要な情報を巧みに隠匿することにより、読者を欺くことが行われている。
『スパイ教室』では読者を欺くために、以下のような技法が用いられている。
リリィとエルナを除き、少女たちの名前はクライマックスまで明かされず、髪の色で区別されている。 小説では視覚情報が限られているため、この情報だけだと読者は少女たちの識別がしづらく、人数を誤認する原因になっている。
八人の少女が揃って登場する場面はほとんどない。数えようと思わないかぎり読者が少女たちの人数を意識することがないようになっている。
加えて言うと、リリィとエルナだけ名前が明かされていることは、髪色/名前という異なるカテゴリに少女たちを分けてしまうため、総数のカウントに混乱を引き起こしているように思われる(個人差はあるかもしれないが、私はネタを知った状態で読んでもこの二人を数え忘れそうになった)。
このようなトリックによって、読者は「七人」という登場人物の嘘を疑うことなく、少女たちの人数を誤認してしまうのである。
繰り返すが、少女たちは『はっきりと八人』描写されているにも関わらず、である。
少女たちは髪の色で明確に区別され、口調や人称、性格などが異なる。きちんと個別に言及され、みな複数回登場する。もちろん、セリフも全員ある。
原作において、『八人目』はクライマックスでいきなり登場する人物などではない。
それなのに、読者は少女は『七人』だと思いこむ。
ここで、先程引用した一文だ。
もし実際の目で確かめたならば八人いることは一目瞭然だったろうが、音声だけで八人の少女の声を聞き分けるのは難しい
原作でこの一文は八人の少女の特徴が列挙されたあとに入る「ネタばらし」の一文である。
この「ネタばらし」を受けて、読者は「やられた!」と衝撃を受けるのである。
視覚情報の限られた小説という形式において、読者は盗聴している敵と同じ立場に置かれていたのだ。
これこそが『スパイ教室』のトリックの最大の面白さである。
"不可能任務"
アニメにおける描写の話に移る前に、共有しておくべき前提がある。
それは、叙述トリックを用いた小説の映像化は難しい、ということである。
「映像化不可能!」などと煽られている小説はだいたい叙述トリックだと言われる程度には難しい。理由は単純で、多くの叙述トリック作品は視覚情報の欠如を利用しているため、映像にするとトリックそのものが機能不全となるのである。
すなわち、『スパイ教室』のアニメ化は"不可能任務"なのだ。
なので、このあとアニメを酷評しても製作スタッフをあまり責めないでほしい。
アニメ『スパイ教室』
では、実際にどのようにアニメ化されたかを議論しよう。
結論から言えば、アニメ『スパイ教室』は「八人目を隠す」という方法を取った。
「八人目」であるエルナの原作におけるエピソードは、アニメではごっそりカットされ、エルナは「ネタばらし」の瞬間まで登場しない。
ただし、それでは「あと出しジャンケン」である。
そこで、ある種の「フェアプレー」を担保するために
よく見るとエルナが画面の端や物陰にいる
グラスなどが八人分ある
といった「手がかり」が提示されている。
叙述トリックの映像化としては無難なやり方だろう。
だが、実際にアニメを見た人はわかるだろうが、はっきり言ってつまらない。
「手がかり」に気がつかなかった、すなわちトリックに騙された視聴者にとっては「あと出しじゃんけん」と何も変わらないからである。(もちろん、「手がかり」に気づいてしまった人には驚きはない)
また、「手がかり」の提示も「気づくか気づかないかの瀬戸際を攻める」というみみっちいものになる。
そして何より、
もし実際の目で確かめたならば八人いることは一目瞭然だったろうが、音声だけで八人の少女の声を聞き分けるのは難しい
というネタばらしが盛大に滑ってしまう。視聴者ははっきりその目で少女たちを見ていたはずなのだから。
「『七人』だと思ってたけど実は『八人』」は叙述トリックではない
このような失敗に至った理由は、製作サイドの「トリック」への誤解があるように思われる。(もしくは、理解していてもどうせ"不可能任務"だからと逃げた可能性もある)
誤解とは『スパイ教室』のトリックの要点を「『七人』だと思ってたけど実は『八人』」であるとすることである。
なぜこれが誤解なのかというと、「『七人』だと思ってたけど実は『八人』」はトリックではなく、トリックによってもたらされた結果だからだ。
分かりやすいたとえを出すと、密室殺人におけるトリックとは「鍵のかかった殺人現場」でなく、それを生み出した「しかけ」である。「『七人』だと思ってたけど実は『八人』」は前者に相当し、さきほど上で挙げた技法こそが『スパイ教室』のトリックなのである。
それにも関わらず、アニメは「『七人』だと思ってたけど実は『八人』」を描くことに力を入れた。
原作のトリックは放棄し、キャラの名前は明かされ、(見切れたエルナを含めて)八人が一つの画面に映るカットもある。代わりの「トリック」は(ヒントを出しつつも)単なる隠匿でしかなかった。
密室があっても、トリックが「合鍵がありました」ではつまらないのと同様に、ただ八人目を隠すだけでは面白くないのは当然である。
本当に"不可能任務"だったか
さて、先程『スパイ教室』のアニメ化は"不可能任務"だと述べた。
それは正しいだろうか。私にはもう少し他にやりようがあったように思われる。
ここで原作が読者を欺くために使った手法を見てみよう。
原作小説中で、リリィとエルナを除き、少女たちの名前はクライマックスまで明かされず、髪の色で区別されている。 視覚情報が限られているため、この情報だけだと読者は少女たちの識別がしづらく、人数を誤認する原因になっている。
八人の少女が揃って登場する場面はほとんどない。数えようと思わないかぎり読者が少女たちの人数を意識することがないようになっている。
これらの手法の肝は「読者に少女たちを数えさせないこと」である。
この肝の部分を踏襲することで、映像作品でも使えるトリックは存在するのではないか。
そもそも、前者は視覚情報の欠如という小説の特徴への依存度が高いが、後者はアニメでも使える手法である。さらに、アニメにはテンポを操作できるという特徴がある。目まぐるしく映像を展開することで、各キャラの個性は出しつつ「数えさせない」ことは可能だったように思われる。
これとは別に、逆転の発想もある。あえて視聴者に少女が八人いることを明確に認識させ、その上でクラウスや少女たちに「七人」と言わせ続ける。視聴者は「あれ、数が合わないぞ」と疑問に思うことになるが、クライマックスでクラウスの策略と理解して「すっきり」するという方法である。小説では読者と敵は同じ立場にあったが、アニメでは違う立場であることを利用するのである。
以上の2つの案はいわゆる机上の空論、岡目八目の後出しジャンケンであるし、上手くいくかは定かではないし、もしかすると、アニメスタッフも検討した上で断念したのかもしれないことは強調しておく。
叙述トリックの映像化でさらなる挑戦を望む
グダグダと駄文を書いたが、言いたいことは「『スパイ教室』のアニメ化はなんだかもったいない出来だな」ということである。
せっかく叙述トリックの映像化という"不可能任務"に挑むのだ。
知恵と策略の限りを尽くして、視聴者を騙しきることに思い切って挑戦してほしい。